8月9日。74回目の長崎原爆の日

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2019年04月27日
広島で被爆者の治療にあたった看護婦の小冊子『戦いに若き命を散らすことなく』


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三本木郁『私の原爆体験記』1.JPG

三本木 郁『 私の原爆体験記 戦いに若き命を散らすことなく 』
2019年3月8日発行

目 次
昭和二十年五月、召集令状 日赤救護班で広島へ
大野陸軍病院
不眠不休で被爆者の看護

― 八月六日午前 ―
― 八月六日午後 ―
― 八月七日 夜中に非常呼集 ―
― 奇縁ということがあるのですね ―
病院に戻って
原爆症があらわれて
学徒出陣の見習い士官たち
気力だけが支えた看護活動
原子爆弾の名称
私たち看護婦にも原爆症が
軍の高官はここでも優遇
敗戦
― 八月十五日 放送を聞く間もなく ―
九月十七日、枕崎台風で大野陸軍病院は倒壊、全滅
京都大学原爆調査班の犠牲者
帰郷
― 召集解除 ―
戦後四十六年を生きて
大野のキューピーちゃんとコースチャちゃん
― 結びにかえて ―

〔 一部抜粋 〕
 私は二十才のときに日本赤十字社から救護班員として召集を受け、広島の大野陸軍病院(旧陸軍病院大野分院)に勤務しました。戦争中の日赤看護婦は、召集令状がきたら、結婚したばかりでも、お乳を飲ませている乳児がいても出かけなければならない義務がありました。 〔p.7〕

 なにしろ患者のほとんどが大きな傷の全身火傷で治療に時間がかかり、朝から始めた治療が夕方まで終わらないこともたびたびでした。その合間には大小便や食事の世話もしなければならず、睡眠時間が少ないうえに、夜も暑くて寝苦しく、私たちは疲れ切っていました。
 その上患者から残留放射能を受けた故か、私達看護婦も貧血、眩暈(めまい)、下痢、発熱が続きましたが、熱が出ても身体の具合が悪くても一人が休めばその分が他の人に負担がかかります。皆それぞれ精一杯の働きをしているので、共倒れにならないためには休むわけにはいきません。みんなフラフラになりながらも頑張りました。 〔p.36 ~ 37〕

 九月になったころ、この大野陸軍病院の建物が米軍に接収されるという話がありましたが、接収の前、九月十七日病院は枕崎台風による土石流のため、全壊してしまったのです。〔 p.44〕

 大野陸軍病院に収容された人達の中に、コースチャちゃん〔1990年8月 サハリンで大火傷をした。当時3歳〕と同じ年ごろの四才くらいの男の子がいたのです。クリクリした目のかわいい子で、人形のキューピーちゃんに似ているところから私達はキューピーちゃんと呼びました。両親も身内も皆死んでしまったらしく、昼も夜も「お母さん、お母さん」と泣きながら呼んでいました。どうしてこんなに焼けたのかと思うほど首から下が一面の大火傷でペロペロに化膿していました。裸で寝かせてあるので、仰向けに寝せておくと背中が毛布にすれるらしく「背中が痛いよ、おこして」と泣くのです。 〔p.57〕

 日本全国から寄せられた激励や好意と、両親の温かい愛情のもとに、札幌医大の医師による最新の治療を受けているコースチャちゃんをテレビで見ながら、かつての日本には、もっともっとひどい火傷をしながら、ろくな治療も受けられず、一人で死んでいった子供が大勢いたことを皆にぜひ知ってもらいたいと思うのです。 〔p.58〕

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