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zoom RSS オウム真理教事件13人の死刑執行と市民社会の課題

<<   作成日時 : 2018/07/27 01:44   >>

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吉本 隆明
理念や宗教は、迷妄な部分を含んでいるという欠陥をもつにもかかわらず、現在の市民社会を超えようとする意欲をもっている人は、どちらかの道でもって、どこで超えられるか考えざるをえないのが、現在の社会の現状だとおもいます。 このことをオウムの問題は提起しています

こんなものは気違いじみた教祖と殺人集団が殺人をしたってだけで、刑罰が決まればそれで終りなんだ、という人がいます。そう片づけたいわけでしょうけど、ぼくはそんな片づけ方をしたらなんにも解決しないとおもいます。 宗教も解決しない、善悪の問題も解決しない。 思想も解決しない。 どういう市民社会がやってきたらいいかということに関してもなんの解決にもならない


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 実にイヤな夏だ。
 暑さのせいではない。 もうすでに5年半の安倍・自公政権で,日に日に腐敗臭が強烈になっている。

 そしてこの政権で,あっというまに オウム真理教事件の13人が死刑執行された。 それも同じ7月のうちに。

 はっきりしているのは
「どういう市民社会がやってきたらいいか」 など,現在の自公政権は考えていないし,20年経ってもあいかわらず多くの大マスコミも考えてはいないということだ。

 目先の自分たちだけの利益が確保できればいいのだろう。 安倍・自公政権と維新はアメリカ軍需産業に隷属する政策と,国民=労働者を奴隷化する政策だけは「最重要」と喧伝して,強行採決した。
 単なる強行採決ではない。 文書さえ,ねつ造したデータを平気で使うわ,都合の悪いものは破棄するわ,国会ではノラリクラリと意味不明な答弁をくり返すわ,あげくの強行採決だ。
 すなわち市民社会も無視。 国民も不在。


吉本隆明 芹沢俊介
『 宗教の最後のすがた 』

春秋社 一九九六年七月二十日第1刷

p.198
 この地下鉄サリン事件は、宗教的、イデオロギー的、あるいは政治的対立のなかにまったく無関係である人たちを殺傷するということです。〈 中略 〉 ぜんぜん罪もなにもないという人は、たまたまその地下鉄に乗り合わせたために殺されちゃった。 そのことがいちばん重要なんです。

p.199 〜 200
 だけどマスコミ、新聞ジャーナリズムはぜんぜんそういうことにはふれないでしょう。 それが市民社会における〈善悪〉観の限界です。 宗教家とかそういう人たちが、はじめっから無名のまったく関係のない罪のない人たちを殺す、そういうやり方をしたということに全力をあげて批判も否定もして、そこに重点をおいて世論を形成していくとしたならば、それはとてもいい市民社会といえます。

p. 201
 人を殺傷するサリン事件のように無関係な人を前提として殺すというのは、いまだかつてあらざることで、テロ行為ともちがう性質のものじゃないでしょうか。 原子爆弾級の意味をもっているとぼくはおもいます。

p.204
 私たちは何を課題として突きつけられているかというと、これはみなさん方に宗教的な人もいるし理念的な人もいるでしょうが、宗教的であっても理念的であってもぼくにはかまわない、同じように見えます。 そして、それぞれすこしずつですけれども、大局的に迷妄な部分をもっているとおもいます。 もちろんじぶんももっています。 しかしその迷妄な部分を、理念であっても、宗教であっても、どちらでもいいんですが、解き放っていくいくというか解決していくという方向で提起できるようになったら、オウム−サリン事件を克服したというふうにいえるんじゃないかとぼくはおもっています。

p.204 〜 205
 これは、現在、現行の法律がオウム−サリン事件を処罰したりして解決するということとぜんぜんちがいます。宗教はそんなもんじゃない。理念もイデオロギーもそうですけど、現存する社会よりも、よりよい条件はあるのだろうか、あるとしたらどんなのだろうかということを、たえず追求していくことが理念なり、宗教なりの役目であるわけです。そして理念や宗教は再三いうように、迷妄な部分を含んでいるという欠陥をもつにもかかわらず、現在の市民社会を超えようとする意欲をもっている人は、どちらかの道でもって、どこで超えられるか考えざるをえないのが、現在の社会の現状だとおもいます。このことをオウムの問題は提起しています。

p. 206
 こんなものは気違いじみた教祖と殺人集団が殺人をしたってだけで、刑罰が決まればそれで終りなんだ、という人がいます。 そう片づけたいわけでしょうけど、ぼくはそんな片づけ方をしたらなんにも解決しないとおもいます。 宗教も解決しない、善悪の問題も解決しない。 思想も解決しない。 どういう市民社会がやってきたらいいかということに関してもなんの解決にもならない。

p.208
組織とか集団というのは、入り方、それから出方、やめ方の両方の出入り口がついていないとだめなんです。 そこへいきますと、オウム真理教はいっぺんにだめなんですよ。 やめ方の入り口がついていないんです。

 親鸞は入り方とやめ方をよく知っているわけです。 この人は宗教家ですけど、宗教の解体ということをやってる人です。 これはとても重要なことなんです。

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