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zoom RSS 上野千鶴子「平等に貧しい」は,社会の「下層」を固定化する抑圧者の無知

<<   作成日時 : 2017/02/14 19:56   >>

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§ 「平等に貧しい」は,社会の「下層」を固定化する抑圧者の無知
 11日付け中日新聞のインタヴュに答えた上野千鶴子先生が 「 人口減と縮小する経済 」 という社会を,ただ受け入れて 「 平等に貧しくなろう 」 なんてアヤシイ発言をしているのですね。
 社会 とは,ただあるがままのものではないはずで,これ,社会学者の意見としてはあまりにお粗末ではないでしょうか。
 だから 「 賛否両論 」 ってあり得ないでしょうが。
 上野千鶴子先生は,実は平等や労働問題なんて考えてもなかったんだあ って切り捨ててオシマイってことでもいいんですが, 加えて高橋源一郎先生と内田樹先生の SIGHT の対談でも 「 平和に衰退していく国の形 」 みたいな,似通った会話があったし,こういう人たちに一定の人気があるって,私はちょっと気分がよくない。

 なぜすべての人びとが豊かになろうと発想できないの。
 それが平等を支える根幹でしょうが。
 努力の結果,皆で貧しくなるんじゃ,目も当てられない。
 そんなんじゃ,立憲も民主主義もアヤシクなっちまうんですよねえ。

 人間が自由を謳歌して尊厳を持ち続けるには,社会全体に対する視線が必要で,だから,とりあえず儲けすぎたところがちょっと削って儲からなかったところを底上げするんだって,社会学者とか,政治家とか,識者とかが,いわなかったらどうなるのよ。
 立憲と民主主義を機能させる途は,社会全体に対する視線からしかないと,私は考えています。
 それって,もうあり得ない理想だとでも思ってるのかな。

 だいたいが,努力しても上手くいかなかったり,頑張ったのに報われなかったりすることは,いつもあり得る。 でも,だから皆で貧しくなるなんて,ヤなこった。

 パナマ文書,覚えていますよね。
 今や情報化社会にあっては,目にもとまらぬスピードで富(資産)の集中を実現していることも,ご存知ですよね。
 細部の説明を省くと,トマ・ピケティも,ほうっておくと富(資産)の偏在を止めることはできないし,日本語では「格差」と訳されたりしていますが不平等の程度が大きくなることで民主主義のシステムさえ機能しなくなると解説していましたよね。
 それ,最近,よく分かってきたんではないですか。

§§ 学者がなすべきこと,関心を寄せるべきこと
 吉本 隆明 『 第二の敗戦期 これからの日本をどう読むか 』 の,学者を批判している部分は,そのまま今の「 リベラル?」 系の言説に楔を打つヒントが満載です。

権力を取らなくても、格差をできるだけ縮めるとか、中小企業以下の企業が盛んになるようにするにはどうしたらよいかということをもう少し考えるべきだと思いますが、そういうことの方には彼らはあまり関心がない 吉本 隆明

 吉本隆明が 「マルクス読み」 だったことで獲得した思想の片鱗を,この本から読みとることにします。
 学者や知識人,教養人にいわばケンカ腰で挑み,状況論や文芸批評をした吉本隆明でしたが,いまは作家・吉本 ばなな の父と紹介されることが多い。
 本書の奥付の1ページ前にある編集部の断り書き
(※)からも分かるように,吉本としては手を入れたい部分も多くあったとおもいますが。

 それでも,1980年代に構造主義,ポスト構造主義の再考をした日本の知識人たちの何人かがレーニンやスターリン的な考え方に固執するのと同じだと批判した部分からは,社会全体に対する視線を持つことが 〈 ほんとうの考え 〉 を持つことにつながるという思想を読みとることができます。


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(※)
二〇〇八年五月二六日、六月一三日、一九日、二四日の四回にわたって、著者にインタビューしたものである。インタビュー、編集にあたっては皆川勤氏にご協力いただいた。本書は著者の体調もあり以後その篋底(きょうてい)にあったが、今回著作権者・吉本多子氏のご許可を得て刊行するものである。(編集部)
画像

本文引用 ; 著作権者は 吉本 多子 氏

吉本 隆明 『 第二の敗戦期 これからの日本をどう読むか春秋社
p.85 〜 157
第3章 第二の敗戦期とはなにか ―― 現代社会を生き抜く考えと言葉

p.109 〜 114
5 ほんとうの知識に向かって

 柄谷行人さんや蓮見重彦さんたちがいっていることは、中小企業の中以下の仕事とか、職業に就いている人のことなんか、なにも頭に入ってないではないか、ひとつも勘定に入っていないのではないかと思います。
 これだけ格差が広がり、状態が酷くなるなかで、知識人とか教養人とかいわれている彼らがいうことは人々に引っかかってこないではないかと思うしわれわれにも何も引っかかってこないといえるような気がします。
 ようするに生活感がないから、ほんとうの知識がないのだといえます。 それでは教養とはいえないわけです。 教養というのは現状についてよく洞察し、物事の始まりと、これから後、そんなに長くはない射程でこうなるだろう、ということを予測できるという、それだけのことを自分の中で身につけていれば教養なのだけれども、あの人たちのいうことは、そこになにも引っかかってこないと、ぼくはそう思います。
 さらにいえば、教養を現実に生かすためには、古い時代に遡って宗教性の問題までとらえて、それを咀嚼し、本格的に解釈できればたいしたものだし、文学に関しても、古典がなぜいいのかということを説明できるぐらいのことはやって欲しい、といいたい気がします。
 そうでないとこれから先へは行けないと思います。 なにかすべてが内向するばかりで、内向する倫理、内向する犯罪凶悪性〔秋葉原通り魔事件2008年6月8日〕に対しては、古代の孔子による儒教の倫理で正当なことを、そのままいってもいまの人には通用しないということに、もうすでになっているわけです。
 ぼくは、社会全体を見るときにどこを中心としているかというならば、産業でいえば消費産業がどこまでいったかということと、働く人がどこまで働けばいいかという労働時間の問題に注目してきました。 先ほども述べたように、一週間の半分は休んでも個人の生活が成り立つし、産業としても成り立つという、そうなればよいと考えています。
 そういうことはだいたいわかりきったことだと思うのですが、識者といわれている人たちのいうことは、そこに引っかかってくることがなにもないのではないか、といえるような気がします。
 お金を持っている人があまりに儲けすぎているのなら削って、中産の中以下の人たちに儲けを回していく、というのが政治家のほんとうの役目だと思います。 もしそういう政治家が出てきて、個々の産業家はいくらでも儲けてくれ、誰もそれをけしからんとはいわないから、そのかわり儲けは中以下の人たちへ削って分けてくれというのが、自由と平等だということだと思うし、矛盾もしないし、なににも抵触しないと思うのです。
 知識や教養は通じないし、なんだか産業は誰も抑制してくれと思っている人なんかいないのに自分で抑制しているような状態だし、誰も殺してくれといわないのに近隣の人を殺したり、子どもまで、遊んでいた親友や仲間を殺したり監禁したりとか、平気でやっている、これが現状です。
 だからそこを 「それじゃおまえ、なんとかしてみろ」 なんて言われると、通常の意味では困らないですが、ほんとうの意味でいえば困ります。 ただし、そういうことについてはいつでも考えていますよ、ということだけはいえると思います。 しかし世の中はこういうふうに転換していってもそんなに簡単には変わらないと思います。
 柄谷さんのような人たちは、結局中途半端に、いかにも権力を取ることや、取ることを支援していくことが目標であるというように振る舞っていますが、もう少し中産階級以下の方の人たちがどうしたらよいのか、ということを考えていかないとだめだと思います。 あまりに学者的に偏向しすぎているといえます。
 権力を取らなくても、格差をできるだけ縮めるとか、中小企業以下の企業が盛んになるようにするにはどうしたらよいかということをもう少し考えるべきだと思いますが、そういうことの方には彼らはあまり関心がないようです。 やはり権力をまずいちばんに取ることが、規定路線であると思い込んでいるわけです。
 そういう考え方というのは、レーニンの考え方のいちばんだめになってしまった部分だと思います。
 レーニンは理想主義的で、よい部分があるし、『 国家と革命 』 というのもいい本だと思いますが、それ以外の 「組織論」 などは、いまは使えないというか、問題にならないというのが、僕らの考えではそう決めています。
 柄谷さんは権力をまず取ってからという、レーニン流の革命主義とか集団主義というか、そういうことをして、書く本もそうだし、書き方もそうです。
 戦前に講座派というのがありましたが、その講座派というのは関心の範囲でしか、自分たちの考え方を展開しないし、問題にもしないというものでした。 柄谷さんたちはまさしく、講座派と同じなんです。 ぼくはそういう考え方は、問題にならないと思います。
 一方、具体的に中小企業、あるいは個人企業の人たちのところに重点を置けば、この社会の全体がよく見えると考えています。 だからレーニンやスターリン的な考え方というものに固執していたら、いま全然使えないし、問題にならないと思います。
 つまりあの人たちは、社会を変えるには上からいった方がよいと思っている古い時代の、かつまたロシアに融和的で、日本のことなんか一切考えに入れていない人たちの考え方と同じなのです。
 実際には、社会を変えるためには、むしろ下からいった方がいいし、その方が速いと思っています。 ただそのことでひとつだけ考えなければいけないことは、要するに産業構造として、より消費者に寄っていく、つまり第三次産業というのが主体になってきつつある、というのを考慮に入れないとだめだということです。
 そうすると、やりようによっては、今の産業構造の転換といいますか、そういうことが見えてくるような気がします。

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