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zoom RSS TPPの不都合な本質隠し「甘利大臣収賄疑惑」と政府予算ほか

<<   作成日時 : 2016/01/21 00:51   >>

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§ 甘利大臣の収賄?疑惑
 TPPの不都合な本質で安倍政権が潰れないうちに,矛先を逸らすように今この時期に甘利大臣の「口利き見返り献金疑惑」。「政治献金の一部を政治資金収支報告書に記載していなかった」という報道と同時にH28平成27年度補正予算案一般会計の総額3兆3000億円余りが通過したと,あっさり内容の批判もなく報道される。予算のうち低年金者への一時給付措置は30003624億円。国民の税金で「票を買う」露骨な政策の陰で,TPPの I SD条項についてなどその危険な本質が露呈しないうちに,甘利大臣を血祭りにあげてやり過ごしたい意図がはたらいているのか。なにしろ,件の建設会社にどういう見返りがあったのか知らないが,わずか1200万円とは随分安い。

<追記 1月23日(土) 01:44AM>
 その後のさまざま報道を見ると,甘利大臣はあっせん利得処罰法(公職にある者等のあっせん行為による利得等の処罰に関する法律 平成14年法律第130号)に違反している証拠があるようだ。
 単なる報告書の記載ミスではないようで,さあそれでは検察の皆さんは汚名を返上する絶好のチャンスですね。
 捏造された証拠での冤罪事件が何だったか,今さら言う必要ないでしょうよ。


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§§ 青春小説を読むに人生の時期というのはあるのかもしれない
(1)
 昨夜聞いたラジオSession22で,H.ヘッセ『車輪の下』読後座談会。「極端にいえば頂点だけあればあとはたくさんだから、削りおとしてしまいたい」(※)と,作品に対する批評的な近道だけを示したいかの“調理”だけが目的であるかの座談会で,100年以上前のドイツ神学校の「受験」が,今日本で行われている大学受験とは意味がそうとう違うことはスッ飛ばしてのワイワイガヤガヤだった。いかにも楽しんでいるかであったが,批評としての小説の読み方の押しつけがましさに私はとても不愉快な気分になった。そして,文学をこういうふうにあつかうのか。こういう番組構成もあるのかと。
 今日では文学や小説がたしかにエンターテインメントとしての側面を強調されることはそれほど良くないことでないのかもしれないが,今どきのたとえば高偏差値(?)中高校の文芸部でなら,こういう会話は受けるんだろうか。
 読後感としてこの小説に納得がいかない思いを持っていそうだった南部広美氏の感想があまり話されず仕舞いだったことも残念だ。私には,南部氏はこのメンバーの中でなら,もっとも柔らかい感受性を持った生き方をしている印象が強い。
 ある程度の学識を持ち,しかも擦れ枯らしとして世渡りしなければならないやや中年にさしかかった時期に,そうした文学をひたすら読むことは無理なのだろうかとさえ思うような荻上氏,三浦氏,サンキュー氏の会話だった。
 小説とりわけ青春の時期をあつかった古典作品を読むに,人生の時期というのはあるのかもしれない。
 私は高校2年のころ 『車輪の下』 を夢中で読み進んだ。でも,私自身もご多分に漏れずいまや感受性など疑わしいうえに,かてて加えて冬は蒲団から手を出すとすぐ冷たくなるので長編の読書ができないでいるんだけれど。


荻上チキ Session22
http://www.tbsradio.jp/ss954/podcast/
2016年01月19日(火)三浦しをん・サンキュータツオ「読後座談会」
題材 ヘルマン・ヘッセ 『車輪の下』


(2) 1981(昭和56)年ころの「一億総中流」日本中がいわば戦後復興を完璧になしととげたあとのその時代の小説にも〈病める家族〉や〈家族の崩壊〉というテーマはくりかえしあらわれる。
 吉本隆明『空虚としての主題』では,運上旦子「ひとり家族」〈新潮〉五十六年九月号,喜多哲正「影の怯え」〈文學界〉五十六年九月号,佐藤光子「潑剌たる幽霊」 五十六年十月号を俎上にのせ,「批評がどうしても呼応できない個所が作品にはある」ことを「嫌悪としての描写」という章で扱っている。


(※) 吉本隆明 『空虚としての主題』
福武文庫 1986年1月10日 第1刷
解説 笠井 潔
p.270〜281
p.274 後ろから5〜4行目

 本書において著者が目指したのは、繰り返すが、作品が無意識としてかかえ込んでいる〈現在〉の構造に対して、鮮明に光をあてるという作業であった。

嫌悪としての描写 p.210〜236
p.210 1行目〜p.211 10行目

 批評の場所からみれば、文学作品は解釈可能性か、解釈可能だと予想されるものの束のようにみえる。そしてこれは創作の場所で、じぶんたちがこしらえた作品には、普遍的な意味があると信じられているのと呼応している。だが批評がどうしても呼応できない個所が作品にはある。批評はいつも早急に作品の中枢を探りあて、その頂点に登りつめて解放感を味わいたいと願っている。こういう批評の願いにとって都合がいいのは、作品がいつも頂点の解放感を与えつづけてくれることなのだ。極端にいえば頂点だけあればあとはたくさんだから、削りおとしてしまいたいとさえ感じている。これにたいして作品をこしらえあげようとする衝動は、まったく反対なのではないか。細かなとるにたりない事柄の描写を、快も不快もなくただ根気よくつづけて飽きないこと。いやどうでもよいような事柄の描写が、快であるような特異な資質が作品の形成にはどうしてもなくてはならない。なぜそんなことが、くどくどと書きこまれなければならないのか、まるで気にかからないように、無味乾燥なことどもを書きつらねていくこと。つまりすべての事柄は、肝要なこと、面白いこと、稠密なこと、頂点のような高いこと、際立ったことから成立っているのではなく、何でもないこと、むしろ嫌悪であることの持続から成立っているという認識が、創作衝動の最後にのこされるのではないか。
 この作品の描写はいったいなにに耐えようとしているのか。それがまったくわからないときでもなお描写の持続に耐えている作品に出遇うことがある。そのとき批評は、猛烈な日照りのしたで、歩行しているような痛ましさを感ずる。こんなとき暑いと口に出すことがまったく無意味だから、黙々と歩行をつづけるより仕方がない。そうしたからといって、とくべつによい処にゆきつくわけでもないのだし、特別に歩行の意義が付け加わるわけでもない。

p.225 8行目
 なぜ家族は現在、いちように崩壊のきざしをうけているのだろう?
<9〜14行目途中まで省略>
 もしこの作品から象徴がうけとれるとすれば、家族を構成する女性的な意識が、むき出しの泥のようなニヒリズムを露出するまでに逼迫していることが、現在の家族の崩壊の根幹にあるものだ。そうひとりでに告知できているところだ。
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